二カ月ほど前に、Artificial intelligence can work uninterrupted (人工知能は中断することなく働くことができる)という文に出会いました。ここはuninterruptedではなくuninterruptedlyではないかとALTに訊ねたところ、uninterruptedが自然だときっぱり否定されました。CNNのテキストにもuninterruptedly の意味と同じだとコメントしてありましたが、なぜそうなのか解説らしいものは載っていませんでした。Artificial intelligence can be uninterrupted when it works.が縮まってできた言い方なのかもしれないと、とりあえず捉えていますが、確信はありません。文法的にはおかしいけれど、それが普通の言い方になっているものはたくさんあります。母語の日本語もずいぶん変わってきて、あれっ、と思うことがよくあります。たとえば、「スイッチを切る」という意味で「スイッチを消す」と言ってみたり、「全然大丈夫」という言い方が普通になったり、何も悪いことをしていないのに、いや、むしろ素晴らしいという意味で「やばい」と言ったり、枚挙にいとまがありません。言語は生き物ですから、たえず変化するのは言語の宿命と受け取るしかないのかもしれませんが、うさん臭さを伴うものはいかがなものかと思います。たとえば「わたくしどもは」という言い方が政治家は大好きなのか、選挙演説などでよく耳にします。その低姿勢でへりくだった言い方にいささか好印象を抱きそうになりますが、次第に「わたしは」あるいは「わたしたち議員」は「おまえたち一般国民」とは違うんだという意識がそう言わせているような気がしてきて、不快感を覚えることがあります。「考えるというのは自分と話をすることだ。そして、話は言葉を使ってする」と語ったのは誰だったか忘れてしまいましたが、言葉がぐらぐら揺れている時代にその不安定な言葉で自己と向き合わなければならないわけですから、容易ではない気がします。たとえば、「情けはひとのためならず」ということわざは、今こそ「情けは無用」という意味ではなく、本来の意味で使われなければならないはずですが、本来の意味で捉えてこなかったひとにとっては、本来の意味で捉えることはしんどいことでしょう。