be satisfied with 「~に満足している」欲望や欲求が十分に満たされているのがsatisfyです。satisfyの名詞形のsatisfactionをCambridgeで引いてみるとa pleasant feeling that you get when you receive something you wanted, or when you have done something you wanted to do と定義してありました。欲しいものが手に入ったとか、やりたいことが出来たときの満足感や喜びがsatisfactionというわけです。ということは、微妙な言い方をすれば、完璧に満足しているわけではなく、必要なことを十分満たしているので満足している、というのがsatisfactionのニュアンスと考えることもできます。たとえば、喉がからっからに渇いているときに水が手に入ったようなとき、どんな水であっても美味しいと感じるでしょう。それがsatisfactionなのだと説明してくれたALTがいました。I am satisfied with my life. (私は自分の人生に満足している) 前置詞withは「満足・不満足」といわれるwithですが、「積極性」を表すときに出てくることがありまから、「私」は人生を前向きにとらえているわけです。I was satisfied to know how happy my daughter is. (私は娘がとても幸せだと知って満足だった) この文のように不定詞がつづくこともあります。一方、contentには必ずしもhappyやsatisfactionの意味合いは含まれません。Cambridgeにはpleased with your situation and not hoping for change or improvementとあります。satisfyを積極的な満足、contentを消極的な満足、と分析していた文献もありましたが、Cambridgeにあるように、contentは変化を望まず、現状に満足していることと捉えればいいのではないでしょうか。不平を言わない程度に満足しているといったニュアンスで。She is content with very little. (彼女はごくわずかなもので満足している) ところで、この二つの成句はなぜか森鴎外の『高瀬舟』に登場する喜助と庄兵衞を思い出させます。一世紀以上も前に今まさに問題になっている自殺ほう助を作品にするなんて卓識の作家ですね、鴎外って。弟の咽喉から剃刀を抜くという凄惨な場面を坦々と描写する鴎外の筆力には不気味な怖さを覚えますが、医者でなければあんな風にハードボイルドタッチで描くなんてとてもできないと思います。一方、日々の暮らしにあくせくしている小役人(現代風にいえば地方公務員といったところ) の庄兵衞はなぜかcontentを感じさせます。