WATERMARKヴェネツィア』という作品の中で、作者ヨシフ・ブロツキーは町がコレラに襲われたときの様子を次のように描いています。「冥界の使者は、夢中になって、コレラに打ちのめされた町を走り回り、脱水状態の体に狙いを定め、唇を鼻孔に当てて、その魂を吸い取ってしまい、さあ、この人間は死んだ、埋めるがいいと宣言するのだ。いったん黄泉の国に下った霊は、無限に続くと思われる無数の広間と部屋を通って行き、その間、自分は間違って死の国にゆだねられたのだ、やり直しを求めたいと訴える。そしてその権利を得ると――公正な判断は、普通ヒポクラテスの統括する裁きの場で行われる――下で出会った人々、地下のホールや部屋で出会った王、女王、英雄たち、同時代の有名人や逆に悪名高い人々についての話を、山ほど抱えて地上に戻るのだ。彼らが、どんなふうに後悔していたか、あきらめていたか、それともまだ挑戦的であったかなど。」裁きの場を取り仕切るのは、医学の父と称されるギリシャ人のヒポクラテス。不条理な「疫病」を扱っていながら、それがいわゆる神の裁きだとか天罰だとか応報だといった、宗教臭さがないのは、ヒポクラテスが登場するからでしょう。さらに死者が「自分が黄泉に送られたのは何かの間違いだ」と訴えて地上に戻ってくる、というファンタジーは閉ざされたソ連を追放されてアメリカへ渡ったブロツキー自身と捉えることも可能でしょう。ちなみに、幕末期に日本はコレラに二度襲われています。二三日でころりと死ぬことから「コロリ」と呼ばれたそうです。ともあれ、早くこの閉ざされた状況から解放されたいですね。精神的にもフィジカルな面でも。